2015年7月6日月曜日

一年目営業女子のビジネスダービー 11

10.旅立ち

内示
その日は夕方から、丸山や山中らと神宮球場で野球観戦が待っていた。
事前に誘った加藤は、週刊誌という性格上スケジュールが調整できず、不参加だった。河崎を含めた営業部のメンバーも調整できなかった。
〈まあいいか。気心が知れた、丸山さんと山中さんだし〉

休み明けでもあり、社内外向けに各種のデータを作らなければならない。朝から慌ただしく作業をしていた10時過ぎ、ふいに内線が鳴った。それは人事部からの急な呼び出しだった。
〈何だろう…〉
いぶかしげな表情で、陽子は指定された会議室にノックをして入った。

「失礼します、営業部の山岡です」
「ああ山岡さん、おはようございます。まあ、座ってください」
人事担当の妙に冷静な言葉に、陽子は嫌な予感がした。
それが顔に出たのか、担当者はストレートに切り出した。

「6月1日付で雑誌編集部に異動辞令が出ます。今日はその内示です」
異動? …私が??
言葉の意味がよくわからない。3年くらいは営業部で勉強してから異動させると、社長から話があったはずだ。陽子はまだ一年しか経っていないのに異動するのはおかしい。 

…異動の内示?
「あの、…私はまだ1年しか営業部にいませんが」
「正式な辞令の内示です」
ぴしゃりと言われた途端、涙がこぼれ始めた。

「全店キャンペーンはどうなるんですか!」
陽子は思わず口走った。その言葉を聞いた担当者はポカンとしている。
普通の状態なら、そんな子供じみたことは口にしないだろう。

だが、陽子は動揺していた。涙が止まらない。

〈なぜ今?〉

〈どうして私が異動?〉

〈なぜあと半年待ってくれないの?〉

〈全店キャンペーンは誰がやる?〉

〈二年連続で一位を獲得したビジネスダービーの表彰式にも出られない〉

ようやく涙が止まったのは、入室してから30分近く経ったころだった。
泣き過ぎて、コンタクトがぐしょぐしょになってしまった。陽子は目を真っ赤にして立ち上がった。
「…取り乱して申しわけありませんでした。失礼します」
一礼すると、人事担当は無言で頷いた。

デスクに戻った陽子の顔を見て、隣に座る同期が内示? と声を掛けてきた。
陽子が小さく頷くと、
「私も呼び出された。週刊誌だって」
彼女は比較的、落ち着いていた。

…ダメだ。仕事が手につかない。
コーヒーを注ぎに行く。飲んでも落ち着かない。
外の空気を吸おう。落ち着かない。
デスクに戻ると、FAX注文が次から次へと入る。相変わらずの売れ行きだ。

昨年9月に加藤から山村書店の担当を引き継いで今日まで過ごしてきた日々が、陽子の頭の中でグルグル回転した。
色んな人の顔、言葉、お店、数字…
〈寂しい〉
どこにもぶつけようのない気持ちが湧き上がって来た。

陽子も多くの社員同様、編集者に憧れて出版業界に入ったはずなのに、気がつくと、日々の営業活動に夢中になっていた。夢中すぎて、時々周囲が見えないほどだった。
今思えば、そんな気分の高揚具合が、自分でも不思議だった。

…それにしても、30分もの間、泣きながらわけのわからない言葉をつぶやき続ける2年目の女子社員を前にして、じっと座っている人事担当者は大したものだ。

お昼を食べ、書籍編集部とのミーティングを終え、山本への報告書の作成を終えた陽子は、夕方、会社を出るころになると気持ちが落ち着いていた。

メガネ
ぐずついた天気だったこともあり、会社を出る前に神宮球場のホームページにアクセスして、試合が中止かどうかをチェックした。午後4時半の段階では中止のアナウンスはなかった。
待ち合わせ場所には、すでに二人が待っていた。

「今日の試合は中止だそうです。この程度の雨なら試合ができると思っていたんだけど」
丸山が残念がった。

「山岡さん、今日はメガネですね」
鋭い観察眼。丸山さん、反応し過ぎです。
「…メガネの話はあとでじっくりさせていただきます」
「?」

試合後に行こうと思っていた、球場から歩いて5~6分のところにあるレストランに、三人は入った。
「…最近スワローズの調子が悪いからなあ。どうせ今日も負け試合だと決め込んで、早々と中止にしてしまったんじゃないかなあ」

丸山がひとしきり、スワローズについて語っているうちに、生ビールがやってきた。グラスを合わせて乾杯すると、丸山がさて、と切り出した。
「そのメガネはどうしたの?」

単刀直入だ。
今、言ってしまったほうがいいのだろうか? タイミングが悪くないだろうか?
…ええい。

「あの、実は今日の午前中、人事に呼ばれて、異動の内示を受けました。その時、涙が止まらなくて、コンタクトレンズが使えなくなっちゃって…。それでメガネに変えました」
異動? と二人はそろって聞き返した。丸山が腕を組み、うーんと唸っている。

どちらに異動ですかと、山中が尋ねた。
「雑誌編集部じゃありませんか?」
丸山さん、ビンゴです。
「よくわかりましたね」

「何となくですが。…山岡さんの普段の頑張りを見て、もしかしたら、引き抜かれたのではないかと思ったんですよ」
「そうでしょうか?」
いやそれにしても残念だ…丸山のビールを飲む手が止まった。

「これからビジネスダービーの拡販キャンペーンが始まるところなのに。売り伸ばしの計画も、これからが山場ですからね」
山中も残念そうに丸山の隣で頷く。

陽子は会議室で泣いている間、売り伸ばしの計画のこと、全店キャンペーンのこと、バカみたいにつぶやいてしまったことを話した。それを聞いた丸山は笑みを浮かべていた。

「それだけ一所懸命、考えて行動していたんだし、山岡さんは大きな実績を上げたんですから、途中で外れるのは辛いでしょう。しかし異動はサラリーマンの宿命ですから仕方がありません。私も若いうちは、随分と異動しました。一つの部署での平均在籍年数は1年半でしたよ。その部署で担当も変わらずにいたのは、一番長くて3年。まあ、あまりに長いとマンネリ化して、逆に仕事がつまらなくなることもあったけどね」
丸山のトーンが冷静になってきた。


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