2015年7月2日木曜日

一年目営業女子のビジネスダービー 7

6.新人同行

4月20日
4月の恒例行事と言えば、何といっても新人の配属だった。
人事部による総合研修を終えた二人の女子社員が営業部に配属された。2年目とはいえ陽子も先輩社員として、トレーナー役を任命された。塾の宿題実施中、ビジネスダービー開催中でのトレーナーだ。

〈こりゃ忙しくなるぞ〉
山本から任命された時、陽子は一瞬不安がよぎったが、よく考えると自分だって、ついちょっと前まで新人だった。
〈順送りですね、加藤さん〉

以前、加藤が陽子に渡してくれた「業務マニュアル」に自分の経験などを付け足したエクセルデータを、陽子は時間がある時にちょこちょこと修正した。
それに丸山には「今年も美女が入社しました」と報告してある。
「今年は美女が入社されたんですか」という返しにはムッとしたけど。

その日は陽子が山村書店の本部に新入社員を引率する日だった。昨年の4月に陽子が加藤に引率されて丸山を訪ねた時と同じ状況だ。アポイントは14時の約束だった。

「今日は一緒に書店を訪問します。山岡さん、どういう視点が必要だと思う?」
かつて加藤の質問に、陽子は答えられなかった。

「…まずね、訪問先の法人がどういう店を展開しているか、それをよく知ること。それぞれ店の立地、規模、客層、さらにどういう商品が強いのか。一番大切なのは、訪問先の書店員さんがどういう人なのかを、つかむこと」

はいと答えながら、陽子はそれを把握するまでどれくらいかかるのだろうと、大いに不安になったのをよく覚えている。

「人の性格もたった一度で見抜くのは大変でしょ。今日は、私の話の進め方や、それに対する相手の反応をしっかり見て、実際に自分が一人で営業活動をする時、どう進めたらいいのか、ヒントをつかんでね」

出発前のレクチャーで加藤に言われたことを、陽子は目の前でかなり緊張気味の新人に話した。明るい感じでかわいいのだが、すでに眉間にしわが寄っている。
「何となくわかるかな、小林さん?」
はいと頷いてはいるが、小林は多分理解していないだろう。
〈そりゃそうだ…〉

定例会
山村書店の本部に到着し、受付であいさつを済ませると、奥から丸山と若い女性が出てきた。いつものラウンジに向かう途中、丸山は落ち着かないそぶりだった。
気になっていますね。

席に着き、新人を紹介させていただきますと陽子が切り出すや否や、丸山は素早く名刺を取り出した。慌てて小林も名刺を出す。
「新入社員の小林です。よろしくお願いします」
小林の声には透明感があった。

「山中と申します。丸山の後任のバイヤーです。まだまだおんぶに抱っこの状態で教えられている最中ですが、よろしくお願いします」
続けて山中が、小林さん、立ち姿が綺麗ですねと口にした。

「どちらのご出身ですか?」との丸山の質問に、小林が鹿児島ですと答える。
「わあ、九州だ、私も宮崎出身ですよ」
思わず山中が反応する。
九州って美女が多いのかと、丸山がわざとらしい声で言うと、山中も小林も、それはそうですよと笑いながら口をそろえた。

「山岡さんも塾の宿題、ビジネスダービー、後輩のトレーナー役と、一人何役も任されて大変でしょう。今日はケーキでもどう?」
と振られた陽子は、ちょっと驚いた。そんな提案はこれまで一度もなかった。
「えーっ、いいんですか?」
おっと山中さん、インターセプト。目がキラキラしていますよ。

「新人が入社する季節だったなあ」
チーズケーキを食べながら、丸山がつぶやいた。それに小林が反応し、
「御社の新入社員は何人ですか」
と尋ねた。すると丸山は嬉しそうにケーキを食べる山中をチラッと見た。

「実は今年は新人を採ってないんですよ。学卒の新人を採らないのは5年ぶりくらいかな。工事の関係で閉店する店も出たから、人が余ることがわかっていたんだね。それで新人の採用はしなかったようです」

新入社員は何人ですかと丸山に聞かれた小林が、2名ですと答えると、山中が陽子に尋ねた。
「今年も新入社員は営業部に配属なんですか?」
「はい。新入社員は3年ほど営業の経験を積ませる、その後、編集を含めた様々な部門に異動させるという方向性が生きているみたいです。色々回って、また営業部に異動する人もいます」

…全然動かない河崎さんは、レアケースなのかな?

新刊のご案内
ではそろそろと、陽子は鞄から新刊案内を取り出しバイヤーの二人に渡す。
「すでにメールでご覧いただいていると思います。来月は点数こそ少ないですが、なかなかの粒ぞろいですよ」

ペーパーに目を走らせるふたりを、小林が凝視している。
「中山さんの本はどうかな?」
最初のページを見ながら丸山が尋ねた。

「確か前作は2009年の暮れに出た他社本ですが、好調だったと聞いています」
「…このタイトルだと、随分、事前注文が集まっているでしょ? 単店指定の上限は、やはり300ですか?」
「いえ、今回は200です」
「200か。…配本のパターンはどうするの?」
「都心部を中心に、売れ行き良好店を厚めにするようです」
「すると、うちのチェーンでは配本がない店も出てくるか。うーん。…じゃあこれ、ある程度部数を指定させてください」
「わかりました」

ふいに小林が、あの…と口を開いた。
「お聞きしたいことがあるんですが」
どうぞと言う丸山は、興味津津な様子だった。

「その…丸山さんは、どうしてその本を指定したいとお考えになったんですか?」
それを聞き、山中は頭に?マークが浮かんでいる。丸山はニヤッとした。
「簡単に言えば、売れる著者の本だったこと。それにタイトルがいい。今風ですよ。売れる予感を持ちました
小さく頷きながら、小林は今一つ納得していない様子だった。

「…小林さんは、類型的な判断と類推的な判断の違いって、わかりますか?」
えっと小林が声をあげた。丸山さん、私もわかりません。

「以前いた会社で、私は職能基準書を作成するチームに参加したことがあります。その時の人事コンサルタントに、この言葉を教えられました。『職能ランクごとに、判断の基準は違うべきだ』と、彼は話していました」
「職能ランクって何ですか?」
ナイス。丸山さんには、その矢継ぎ早の質問が効きますよ。

類推判断
「働く人間の能力をランク付けしたものだね。そのランクごとになすべき仕事を決める。例えば、新人とベテランでは仕事の内容が違っていなければならないでしょ? 給与の水準が違うのに仕事のレベルが同じだと困りませんか? そんな矛盾を解決するために、ランクごとになすべき仕事の基準書を作ったわけです」

確かに。河崎や佐藤が陽子と同じ仕事レベルだと困る。
「その基準書では仕事を難易度で判断し、ここまではこのランクの仕事、ここ以上は上位ランクの仕事というふうに、一人ひとりがやるべき仕事を明らかにします。初心者に仕事を任すには、類型的な判断で可能な仕事がいいし、ベテランになったら類推的な判断が必要な仕事をして欲しいわけです」

「新人とベテランでは、物事を判断する基準が違うということですね?」
小林はツボを押さえるのが早かった。

「そう言えるかな。上位者にはよりレベルの高い仕事をしてもらわなければならないし、できれば仕事のレベルを現状より上げて欲しいわけです。その際の判断基準が類型と類推に分類されると教わりました」

アイスコーヒーを口にしながら、ちょっと難しいかなと丸山がつぶやく。何となくわかりますと話す小林に、山中も同調した。
「でね、今回指定させてと言った本に対して、私は類推的判断を適用しました」
「類推、ですか?」

今度は陽子が尋ねた。
「うん。この著者には固定ファンがいるんですよ。だから多分、初速、…あ、小林さん初速っていうのは本が店頭に並んでから短期間の売れ行き度合いのことだけど、…が速いはずです。発売になった途端、買いに走る人たちがいるはずです。そう思いませんか?」
「そうですね。私もそう思います」

「そうなった場合、最初の時点である程度部数を確保しておかないと、品切れを起こす可能性がある。早々に品切れになってしまうと、どのくらい売れるかデータが取れません。ある程度の量を持っていれば、その後の売れ方は予測しやすくなります。だから、最初の時点でまとまった数が欲しいのです。そのための指定配本を出版社に希望する、というわけ」

初速の話はこれまでに何度となく、丸山の口から出た。本の作り手である出版社の社内、とりわけ営業部門でも、初速をめぐる議論が多い。それは書店でも同じことだった。
「最初に少ない量しか持たなければリスクは低いけど、それが売り切れてしまうと、その本がこの先、どのくらい売れるのかを予測することが難しいからね」

見ると、小林が新しいノートにペンを走らせている。その様子を山中が笑顔で見ていた。
「それに対して類型的な判断は、前回これくらい売れたから、今回もこのくらい売れるだろうというような判断です」

「…過去にデータがあるようなものに対する判断が、類型的、でしょうか?」 小林が恐る恐る聞くと、その通りと、丸山がちょっと大きな声を出した。
「今回の場合、過去の事例が参考になるわけではありません。そこで、こうなるんじゃないかという予測も含めて判断するわけだから、類推的な判断」

「一字違うだけで、こんなに意味合いが違うんですね」
小林が感心する。山中は、ルイケイ、ルイスイ、とつぶやいている。
「一つ先を推測しながら判断を下すということは、ちょっとだけレベルが高いものだと思いませんか?」

こだわり
しかし次の本へと話題が移ると、丸山が開口一番「この本はいらない」と斬った。
え。陽子は固まった。
「あの、有力なアーティストだから売れますよ」
「いや、いらない。以前、売れなくて困ったことがあったから。R出版で必死に売らなくてもいいんじゃないのかな」
かなりぶっきらぼうだ。
「配本で様子を見ましょう」

そういえば。…いつだったか、飲み会の席で、タレント本をビジネス系の出版社から出すのはどうなんだという話を、丸山が口にしたことがある。
…切り返さなきゃ。

「…えーと、次に桜田さんの本ですが、前回は武道館で講演がありましたので出張販売をさせていただきました。今回も講演については事前にチェックし、地域的に該当すればご連絡をします。部数はどうしましょうか?」
「これも配本で様子を見ましょう」

「ありがとうございます。その下の英語の本は数年ぶりの新版ですが、データを見るとよく売れています」
そう言いながら陽子は丸山と山中にコピーを渡した。
結構売れていますねと山中が言うと、丸山は指定させてくださいと答えた。

「…あの、いつもこういう感じなんでしょうか?」
小林が丸山や陽子を交互に見ながら尋ねた。不安そうな表情だ。
同じように話を進めることができるのか、心配なんだろう。仕方ない。私も加藤さんの隣に座っていて、超心細かった。丸山が優しい表情に変わった。

「事前のメールでチェックしているし、お互いが欲しいものを考えて話していますから。今日はおおむね、考えが重なったからグッドな雰囲気。重ならない時は話がややこしくなり、バッドな雰囲気。お互いにゴリ押しを始めるかもしれません。相手の気持ちを知るには、普段から頻繁にやりとりすれば大丈夫」

ね、山岡さんと、丸山が陽子に笑いかける。…私、ゴリ押ししましたっけ??
ではこのあたりでと丸山が言うと、山中がつぶやいた。
「次からは私がするんですよね。ちょっと心配です」
笑いながらも、表情が少し固い。丸山さんの後任って重そうだな。
「大丈夫、まだ一緒にやれる時間があるから。徐々に慣れるよ」


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